奇跡の壕「シムクガマ」
チビチリガマと対照的に挙げられるガマがある。それがシムクガマである。チビチリガマよりはるかに巨大で波平集落の多くの住民がシムクガマに避難した。そこは『奇跡のガマ』として知られている。
読谷村波平区の旧瀬名波通信所、通称『象の檻』近くに位置する巨大な鍾乳洞(ガマ)である。その全長は2.5Km以上に及ぶ。シムクとは下に向くという意味から来ているらしい。民家の間を通って、農道を抜けるとガマへ続く山道がある。なるほど、下に向けて下ってゆく。しかし、振り向けば民家が直ぐにあるこの場所。現在と過去が共存しているように思える空間である。
先へ進むと今までとは打って変わってのジャングル地帯。人間の背丈の倍はあろうかというクワズイモの葉が覆い尽くしている所やシダの葉が大きく陽の光を遮っている。
シムクガマの入口に来た。チビチリガマと違い、入口もかなり巨大である。大きな口を開けてまし構えているようで、初めて訪れるとかなり圧倒される。
入口に近づくにつれ周りは暗くなり、入口付近はもう真っ暗で懐中電灯ななければ、歩く事は困難になる。なにやら恐ろしい雰囲気があるが、ここはチビチリガマとは対照的に『奇跡のガマ』と呼ばれてる。
1945年4月1日、米軍上陸当日、シムクガマまで米軍は直ぐにやって来た。米軍がガマに足を踏み入れる直前、艦砲射撃は激しくなり、見張り役をしていた警護団の2人が犠牲になっていた。まだ13~15歳の少年だった。
米兵数人が入口までやって来た。『Come on! コロサナイ。ダイジョウブ。』を繰り返すが、長年米兵は鬼畜と教育された住人は信じようとしなかった。1,000人を超える住民は皆パニック状態になるが、米軍へ立ち向かおうと住人らを押しのけて前に出たのは13歳~17歳で構成された警護団だった。
彼らはひるむ大人を尻目に竹槍で米兵に向かっていった。それには米兵も慄き、銃口を向ける。今まさに発泡しようとするその時に大きな怒号がした。
『槍を捨てなさい!!!』その声はその場すべての時間を止めるほど、大きく力強い魂の叫び声だった。その声の主はハワイ帰りの比嘉平次さんだった。
米兵はお菓子や水、缶詰を置き、その場を立ち去った。比嘉さんは同じくハワイ帰りの叔父である平三さんと共に二人で米軍の元へ出向き、交渉した。殺されて帰ってこないと信じていたガマの住人は返ってきた二人に驚くが、『投稿すれば命の保証をする』とういう交渉の内容を聞いても信じることが出来なかった。
比嘉さんらは『非国民』と痛烈な避難を受けながら、1000人の住人を説得されて住民を投降させて、その命を救ったのだった。投降するまでの時間はまるでチビチリガマで行われたような会話ややり取りがあった。自決の道を辿ろうという住民達心の流れを比嘉さんらは必死で説得したという。
1945年4月1日、米軍上陸作戦当日、チビチリガマ集団自決の一日前の出来事である。
その頃、チビチリガマでもチョコレートや水、缶詰等とを置いて、一時撤退した米兵の置き手紙『ダイジョウブ、コロサナイ』を前に、住民同士の投降・自決を題にしての激しい討論(命をかけた戦いの場だったという方もいる)が繰り広げられていた。その場に比嘉さんらのような方が居たら、結果は違っていたのかもしれない