チビチリガマの悲劇
チビチリガマ
1945年3月下旬、米国大艦隊が読谷の海に現れる。日本軍は南部からの上陸を想定していたため予想だにしない上陸となった。その頃の間近で見たオジー、オバー達は口々に読谷の海がなくなった、鉄の海に変わったと証言している。見渡す限りの海を埋め尽くすほどの大艦隊だった。1945年4月1日に米軍は読谷の渡具知ビーチから上陸してゆく。
4月2日読谷村の波平にある小さな鍾乳洞が悲劇の舞台となる。米国軍への投降をせずに世に言う『集団自決』という行動をとってしまった住人の悲しい事件が起こったのは、4月1日米軍上陸の次の日のことである。
沖縄でガマとは鍾乳洞を表す。チビチリガマは『尻切れガマ』と意味で、ガマ沿いに流れる川がガマの手前から地中に流れ込んでいるようで、ガマ以降に流れが途切れていることからこの名前が付けられたようだ。読谷村字波平集落の人々は、波平にある2つのガマに分かれて避難した。多くの人は集落で一番大きなシムクガマへ避難したが1000人を超える数だったため、残りの140人がチビチリガマへ避難を余儀なくされた。そのことが運命を分かつ事になろうとはその時は誰も考えられなかっただろう。
暗いゴウの中では、『米軍に捕まったら辱めをうけ、苦しみながら命を落とす事になる。じざという場合はこれで』とそれぞれ家族の代表に毒薬、カマやナイフが手渡された。米軍が目の前に迫ったまさにその時、家族を守ろうと機銃を構える米兵に数名の男女が竹槍で立ち向かったが、ゴウの前で射殺される。それをゴウの中から見ていた人々は次々に自決の道へ進んで言ったと言う。ゴウの中に火を炊き一酸化中毒を計る者、毒薬を注射する者、毒薬が尽きると、カマやナイフなどでお互いを刺しあったそうだ。煙の中、たくさんの人々の叫び声、おびただしい血の海、その惨劇は体験者の口からは『本当に地獄があったら、光景だろう』という言葉が返ってきた。チビチリガマに避難した140人の内83人のが犠牲となった。その皆さんの名前が石碑に刻まれている。中には3才、5才、9才という幼い子達の名前も連なっている。こんな幼い子ども達が自らの意思で死を選ぶ『自決』ができただろうか?我子を自らの手で殺めなければいけなかった親の心はどうなだっただろうか?今の我々には、想像すら出来ない惨劇が、実際にこのチビチリガマで起こったのだ。